藤田嗣治という画家の名前を知ったのは、いつだったろうか?
多分、ある時、上永井さんの口から聞いたのだった。「ここはフジタが住んでいた場所でしたよ」って。もうこの方も亡くなって十年以上たつだろうか。厳しい物言い、立ち姿、そして美しい筆の年賀カードを今でも思い出す。
パリに来て一年、将来夫になる人とアパルトマンを探していた時、偶然にも見つけたのはシテ・ファルギエールという名前のアーチストのアトリエだった。パスツール研究所に隣接したそこは、かつてはアーチストのためのアトリエが立ち並ぶ通りで、現在では9-11番地以外はみな普通のアパルトマンになってしまっている。9-11番地だけは住民たちの反対にあい、奇跡的に残ったのだった。

そこには3つの建物が立っており、全部で15人ほどの芸術家や画家の未亡人や音楽家たちが住んでいた。とはいえ私たちはアーチストではなく、かつ住んだのは半地下の天井が低い大きめのストゥディオ(一部屋)で、かつてカーヴのために作られたというような場所だった。
建物は1900年のパリ万博の時の廃材で造られたと聞いたことがある。
上の2つの階はアトリエなので天井が高くて光が差し込むが、うちは入口の一辺からしか光が入らない薄暗い部屋だった。

でも冬暖かく、夏は涼しいというし、家の前には小さな庭があって、秘密基地みたいで気に入った私は、大根でも買うみたいに「ここにしよう!」と言って一軒目でこの物件を決めた。洋服とか靴はダラダラ迷うくせに、私のこういう時の決断は電光石火なのだ。
この建物には5世帯あって、一番地下がうち、その上(地階)にはアメリカ人の画家ジュディットともう一人フランス人の画家の未亡人がおり、その上階(日本風2階)に上永井さんとパスカルというフランス人のピアニストが住んでいた。

上永井さんは画家の未亡人で白髪のおばあさんだった。由緒正しいお金持ちの家に生まれ、何不自由なく育ったが、ある日、家の玄関に飾ってあった名もないかなり年上の画家と駆け落ちして家を飛び出てきたという話を聞いた。その画家が上永井画伯であり、彼女の御父上が画伯と懇意にしていたというのだ。
ふたりはブラジルに住み着き、そこから長い旅路を経てフランスにやって来たのだという。まるでドラマになりそうなストーリーだった。 しかし画家として上永井画伯は売れなかった。そこで額縁を作って生計を立てた。夫が誰かの額縁を作っているのをきっと夫人は複雑な思いで見守っていたんじゃないかなという気がする。
夫人は家計を切り盛りし、一人息子を立派に育て上げた。この息子はフランス語だけで育てられ、超エリートの道を進んだ。やがて夫は亡くなり、成人した息子もその家を出て、夫人は長い年月一人で暮らしていた。この上永井さんの昔話の中にはしばしば有名な画家の名前が出てきた。
「そこの階段にピカソが腰かけてましたよ」とか「フジタが住んでいたのはお隣(14番地)でしたよ」とか。そう、そこでフジタを知ったのだった。そして親しみを覚えた。
エコール・ド・パリの芸術家たちがモンパルナスに集ったのは1910~20年代で、このシテ・ファルギエールにはフジタの友達モジリアーニやスーティンも住んでいた。だから90年代にそこに住んでいたアーチストたちもパリに数少なく残る歴史的なアトリエに住んでいるというのをどこか誇らしくまた大切に思っているのが感じられた。

うちの上の階のジュディットは庭にアフリカのお面や拾ってきた燭台を飾り、ジャングルのようにしていた。画風はマティスの影響を受けていた。ピアニストのパスカルはスーティンが描いたという「シテ・ファルギエール」の絵を写真にしてくれたりした。その他、数字ばかり描いているユーゴスラビア人のミラや彫刻家の彼氏、ピアニストのステファン、テキスタイルデザイナーもいたっけ。みんな仲良く、自由だけど尊重し合って暮らしていた。

フランスがいいのは、こういう売れない芸術家、音楽家たちがいかにも堂々としていること。アーチストというとちょっと尊敬されたりする。そして私は彼らの生態をまじまじと近くで観察する機会を得た。もちろんここに住んでいた8年間は本当に楽しかった。
そしてその頃とすでに比較にならないが、もっともっと外国人芸術家たちが交流があって、生き生きとお互いの芸術をぶつけあっていた1920年頃のパリっていったいどんなだったんだろう…と想像すると心が躍る。その中にあって異彩を放っていたのが日本人画家 藤田嗣治だろう。
独特のおかっぱ頭にロイドメガネ、ちょび髭をたくわえ、ピアスというファッション、得意のおどけたパフォーマンスで座を沸かせ、でも本当のストイックな姿は誰にも見せないで…。
1922年に「ジュイ布のある裸婦」で大ヒットを飛ばし、時代の寵児に祭り上げられた。それから順風にひた走りに20年代を駆け抜けた。しかしその後は恋人の裏切り、経済的破綻、長い旅行、戦争があり、人の嫉妬を買い、祖国に裏切られ、しかし救いもあり、出会いもあり、新しい愛にも恵まれ、フランスに戻り、帰化し、キリスト教徒になり、亡くなった今でもなお、彼の作品や生き方が大勢の人々の心に残り、響いている。
私も不思議な縁を感じて、ガイド学校の卒論テーマにフジタを取り上げた。だから私はかなりフジタに詳しい。でもそれも始まりは「シテ・ファルギエールに偶然住んでいたから!」それに尽きる。この卒論では、2つか3つ、自分の考えたテーマに沿った旅程というのを発表しなくてはならない。
それで今ここで、私が考案した「フジタツアー」をご披露したい。このままの行程でなかなか良いのではと自負している。
【旅程案:フジタの足跡を巡る旅 パリ編】
-
- Cité Universitaire 日本館(1927年に手がけた壁画2枚を観賞)~モンスリ公園を通り~
- 3 Square Monsouris 75014(最盛期3番目の妻ユキと住んだ家)~11 Cité Falguière 75015(件のシテ・ファルギエール)~
- パリ市近代美術館(「ジュイ布のある裸婦」を観賞) ~5 rue Delambre 75014 (2番目の妻フェルナンド・バレーと住んだ家)
- Le Dômeで昼食 (エコール・ド・パリのアーチストたちが常連だった店 フジタのパネルがある 現在は魚介類のレストラン)
- 昼食後はVilliers leBâcleまで足を伸ばし、フジタの晩年暮らしたアトリエ住居の見学